中央合唱団

 

中央合唱団(ちゅうおうがっしょうだん)は、うたごえ運動の創始者である関鑑子が、日本共産党員として同党の方針に従い、1948年に創立した合唱団である。

 

 

 特色

 

中央合唱団は、うたごえ運動の首都圏における中心合唱団(センター合唱団)として、「赤旗まつり」をはじめとする日本共産党主催行事や「日本のうたごえ祭典」に出演し、関連楽曲のレコード録音を行った。創立時より一貫して、関鑑子の監督・指導のもとで活動を展開した。

 

1960年末、「アカハタ」紙上に発表された日本共産党の公式見解では、中央合唱団が果たした役割は「特筆すべきものがある」として、次のごとく述べられている。

 

「[中央合唱]団は、現代の社会情勢を踏まえて、戦前のプロレタリア音楽運動の遺産を勤労人民大衆の中に継承し、発展させることを目標に普及と創造活動を行い、これが『うたごえ運動』の核になり、今日の発展の原動力となった。[...]日本のうたごえ運動はいま、新しい発展の段階にある。当面の課題は、日本人民の巨大な運動の前進とともに、これからのうたごえ運動をどのように進めていくか、ということである。人民の諸闘争と結合し、発展させることと、諸闘争に奉仕することは、先進的な活動家の主要な任務である。未組織労働者の中へうたごえを拡大することは、うたごえ運動の発展における新しい威力となる。[...]無数のうたごえ活動家を思想的、政治的、芸術的に高め、職場、地域に育てあげることは、今日実際的に必要に迫られている。[...]さらに新しいうたごえ活動家の育成は、党の文化活動、大衆活動の発展にとってきわめて重要である」

 

 

 歴史

 

1948年2月10日、関鑑子が日本共産党の要請に応え、日本青年共産同盟の「中央コーラス隊」を母体として、中央合唱団を組織。この日、日本青年共産同盟創立二周年記念集会(神田共立講堂)にて、約40名で合唱演奏を行ったことから、以後は2月10日が同団の創立記念日と定められた。


1948年8月、中央合唱団、関西・中部公演(大阪・京都・神戸・奈良・名古屋)。中央合唱団の専従者を各地に派遣し、京都ひまわり合唱団、関西合唱団(大阪)、神戸青年合唱団、名古屋青年合唱団など、中央合唱団と活動趣旨を同じくする「センター合唱団」を、各地の主要都市に設立した。


1949年6月、中央合唱団機関紙「うたごえ」創刊。


1951年8月、東京都新宿区の音楽センターが落成。以後、中央合唱団の主要拠点となる。


1960年4月17日、日本共産党主催「安保阻止総決起大会」(日比谷野外音楽堂)で演奏。


1964年5月~6月、日本のうたごえ合唱団ソ連ツアー公演に参加。連邦各地で23回の公演を開催。


1967年7月17日、「日本共産党創立45周年を祝う記念の夕べ」(東京都体育館)で、杉本信夫 作曲「われらその道を行く」(日本共産党創立45周年記念作品・入選作)を演奏。


1969年12月10日、歌劇「沖縄」全幕初演(渋谷公会堂)に参加。


1970年4月14日、「日本共産党機関紙『赤旗』創刊7000号記念 春の音楽祭」(東京都体育館)で、歌劇「沖縄」を抜粋演奏。


1970年4月~10月、歌劇「沖縄」第1次全国ツアー公演に参加。


1972年3月~6月、歌劇「沖縄」第2次全国ツアー公演に参加。


1972年7月12日、相馬公信 作曲「ひとすじの道」(日本共産党創立50周年記念作品・入選曲)の演奏をレコード録音(世田谷区民会館)。


1972年7月18日、「日本共産党創立50周年祝賀中央集会」(渋谷公会堂)で、相馬公信 作曲「ひとすじの道」を演奏。指揮は関鑑子、伴奏は新日本ポップス・オーケストラ。


1973年5月2日、関鑑子、東京都内の病院で死去。


1973年5月4日
、関鑑子告別式(新宿区・音楽センター)。中央合唱団の渡辺一利団長が弔辞の中で、この日から同団を「関鑑子記念・中央合唱団」と改称すると発表。

 

 

 中央合唱団機関紙と「うたごえ」の平仮名表記

 

うたごえ運動では、「うたごえ」と平仮名表記が用いられることが多い。理由は一説によれば、中央合唱団の機関紙「うたごえ」(1949年6月創刊)で、表題に平仮名が用られたためとされる。中央合唱団創立メンバーの一人である清宮正光は、平仮名で命名した経緯を次のように語っている。

 

「...合唱団の機関紙をつくろうという話になって、私に編集がまかされました。タイトルを「うたごえ」としたのは私の案で、当時 “うたごえ” はまだ一般的な呼称になっていない時期ですから、私の仕事の中でいちばん意義のある仕事だったのかもしれません。平仮名にしたのは、当時まだ中学も出られなかったような労働者を広く対象にして運動する目的からです」

 

ただし、中央合唱団機関紙「うたごえ」の創刊後も、運動関係者の書物や論説では「歌声」、「歌ごえ」、「うたごえ」などの表記が自在に用いられ、平仮名がうたごえ運動の組織により公式化された形跡は認められない。顕著な例として、日本のうたごえ実行委員長の関鑑子は、1962年12月の「第10回記念-日本のうたごえ祭典」に際して揮毫した運動スローガンを、「歌こえは平和の力」(ママ)と記している。

 

 

 「関鑑子記念・中央合唱団」

 

1973年、関鑑子の死去に際して、中央合唱団の既存団員を受け継ぐ形で「関鑑子記念・中央合唱団」が発足し、引き続き通称として「中央合唱団」を用いている。しかし、日本のうたごえ実行委員会の「日本のうたごえ全国協議会」への改組(1973年)や、同協議会第7回総会・規約改定による政治運動方針の転換、指導者の変遷などを経た結果、かつての関鑑子指導下の中央合唱団とは活動方針、実体ともに非常に異なるものとなっている。